足利尊氏ゆかりの八幡宮
今回は、 亀岡市内の国道9号線を走っていると看板が見える「篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)」に行って来ました。前から気になっていたんです。理由は、看板に「足利尊氏公、旗揚げの地」と書いてあるからです。
足利尊氏は、鎌倉時代の武将です。鎌倉幕府の御家人である尊氏は、鎌倉幕府の執権(幕府内のほぼ№1)の北条高時の命で、倒幕の兵を揚げた後醍醐天皇率いる倒幕軍を制圧する為に、京都へ派遣されました。
しかし!裏切るのです!
後醍醐天皇の誘いを受けた尊氏は、率いてきた兵と共に倒幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を攻め見事に勝利します。
関東では、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府を攻めます。尊氏は、嫡男の千寿王(のちの足利義詮)を関東に派遣します。
足利氏は、源氏の名門として名声がありましたので、千寿王を関東に行かせる事で鎌倉幕府の御家人を味方に付けようとしたのですね。
千寿王と合流し勢いを得た、新田義貞は、鎌倉幕府の本拠地である鎌倉を攻め落とします。
生き残った、北条一門と御家人達は、北条氏の菩提寺である東勝寺で最後の戦に挑みますが、敗北し自害します。
ここに、鎌倉幕府は滅亡するのです。
あれ?源氏は!?
鎌倉幕府は、源頼朝が開いたはず。
北条家は、飽くまで執権で将軍ではない!北条一門が自害しても将軍がいれば、幕府は滅亡しないはず。。
確かに、北条家は、将軍の政治を補佐する執権です。しかし、源氏の嫡流の将軍は、僅か3代で潰えていたのです。
後は、皇族や位の高い公家(関白等の役職についている公家)の子息を、幼少の内に京都から将軍として迎え、成人したら解任して京に還していたのです。
北条家の権力への執着心すごいです。将軍は、形だけにものになってました。
また、勝利した後醍醐天皇は、幕府に政治を任せず、自ら政治を行いました。「建武の新政」です。(はい、ここテストに出ます。)
幕府は、「はい!僕、幕府を開きまーす」と言って開ける訳ではありません。
天皇より征夷大将軍の役職に任命されて、初めて武家の棟梁として幕府を開けます。
なので、後醍醐天皇に、鎌倉幕府の実際の支配者の北条一門が敗北した時点で、鎌倉幕府も滅亡したのです。
長くなりましたが、そんな足利尊氏が、倒幕の旗を揚げたのが「篠村八幡宮」です。
後年、後醍醐天皇と対立し、京都を追われた尊氏は、篠村八幡宮で、再起祈願を行い九州へ落ち延びます。
そして、九州で力を蓄え京都に攻め上ります!湊川の戦いで、後醍醐天皇方の楠木正成を破り、京都を奪還します。
京都から逃れた、後醍醐天皇は、吉野に逃れ、そこで政事を行います。いわゆる南朝です。
後醍醐天皇は、大覚寺統であった為、尊氏は、持明院統の天皇を擁立し、室町幕府を開きます。
尊氏に、擁立された朝廷は、いわゆる北朝です。
朝廷が二つ存在する南北朝時代は、しばらく続きますが、室町幕府三代将軍の足利義満(金閣寺を建立した人です)が、南北の朝廷を合体させます。
これで、朝廷は1つになります。室町幕府は、義満の代が最盛期でしたので、南北合体も実現出来たのでしょうね。
因みに、義満は、アニメの一休さんにも登場している将軍様です。
篠村八幡宮には、足利尊氏が旗揚げした時に、味方に居場所を知らせる為に、旗印である「二引両」の旗を掲げた場所も残っています。
歴史の大きな舞台になった、篠村八幡宮です。亀岡に行かれた時は、立ち寄ったみては、如何でしょうか。
所在地
◯主祭神
誉田別命
(ほんだわけのみこと 応神天皇)
◯合祀神
仲哀天皇
神功皇后
◯住所
〒621-0826
京都府亀岡市篠町篠八幡裏4