スポンサーリンク

山崎の合戦後、明智光秀が再起を図った城!勝龍寺城!

スポンサーリンク
スポンサーリンク

勝龍寺城とは?

スポンサーリンク

今回の城巡りは、京都市の南西にある長岡京市です。長岡天満宮がある町でも有名ですね。

お邪魔したのは、細川家と明智光秀にゆかりのある、勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)です。

南北朝時代の守護大名である細川頼春(ほそかわ よりはる)が築城した細川家ゆかりの城です。

細川家は、鎌倉幕府以来の武家(源氏)の名門の家柄で、室町幕府では管領職(かんれいしょく)を歴任していました。

「管領職」は、室町幕府の役職で将軍の補佐や全国の守護大名を統括していました。

細川家は。将軍家である足利家(第10代将軍・足利義稙の時代)さえ凌いで幕府の実権を握っていた時期(細川政権とも云われます)もあります。

しかし、源氏の政権は鎌倉幕府といい室町幕府といい将軍家は、よく実権を家臣に握られます。

鎌倉時代は執権の北条家に、
室町時代は管領の細川家・・・

勝龍寺城は、細川家が衰退した一時期は別の大名が城主になっていました。

しかし、細川藤孝が織田信長より山城国の一部を与えられてから丹後国に国替えになるまで細川家の居城となります。

天正6年(1578年)8月には、この城で細川藤孝の嫡男の細川忠興と明智光秀の娘である(のちの細川ガラシャ)が結婚式を挙げます。

しかし幸せは長くは続きません。天正10年(1582年)歴史の節目である「本能寺の変」が起こります。

明智光秀が謀反を起こした理由は、諸説あります。朝廷陰謀説や秀吉陰謀説とかです。

スポンサーリンク

私は、織田家での将来を悲観したと思いますが「本能寺の変」に関しては、またの機会にしようと思います。

「本能寺の変」後に、光秀は中国から戻って来た羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と山崎の地で天下分け目の戦に臨みます。

しかし、力及ばず敗北し勝龍寺城に退却します。

そして、勝龍寺城より再起を掛けて居城である近江国の坂本城を目指しますが、途中で農民による落武者狩りにあい落命してしまいます。

細川家で最近(少し前の事になりますが)有名人だったのが、護熙さんです。

第79代内閣総理大臣の細川護熙(ほそかわもりひろ)です。

肥後熊本藩主の肥後細川家・18代当主でもあります。江戸時代が続いていたら殿様ですね。

因みに、肥後細川家は嫡流では有りません。傍流になります。

勝竜寺城公園

スポンサーリンク

現在の勝龍寺城は、勝竜寺公園として整備されています。駐車場はありますが狭いですね、6台ぐらいしか停めれません。

なので、近くのコインパーキングに停めて勝竜寺城公園を目指します。少し歩いていくと。

おー、見えてきました、勝竜寺城公園です。入口のある南門に回ってみると。

なかなか立派な天守閣が再現されています。さっきまで天気が微妙だったのですが晴れてきましたね。

城内は、綺麗に整備されていて長岡京市民の憩いの場になっています。家族連れの人もいますし本を片手にベンチで読書にふける人もいます。まあ、いい意味まったりした時間を過ごせます。

ちらほら紅葉もしていました。昔この地で天下分け目の戦があったとは思えないほどに長閑ですね。

城を後にしてコインパーキングに向かいますが、堀沿いの紅葉も綺麗でした。

来年の大河ドラマは「麒麟がくる」です。主人公は明智光秀です!京都にお越しの際には、少し足を延ばして、光秀最後の城になった勝龍寺城を訪れてみたらいかがでしょうか?

勝竜寺城公園の詳細

スポンサーリンク

◯住所

〒617ー0836
京都府長岡京市勝竜寺13ー1

◯電話

075ー955ー9515
(長岡京市役所商工観光課)

◯入園時間

9:00〜17:00

◯駐車場

7台
(近隣にコインパーキング有り)

〇最寄り駅

JR長岡京駅東口か南へ約500メートル

タイトルとURLをコピーしました