醍醐の花見とは。
京都の伏見区にある醍醐寺で、豊臣秀吉が開いた「お花見」です。
因みに、お花見は昔から有りましたが、今の宴会風の花見の元祖は、豊臣秀吉と言われています。桜を見ながら宴会をする習慣は、それまで有りませんでした。
その「宴会風花見の元祖、秀吉」の最後の大イベントとなったのが、慶長3年3月15日(1598年4月20日)諸大名を集めて実施された、「醍醐の花見」です。
しかし醍醐には、盛大に花見を行う程、桜の木が有りませんでした。
仕方ないので集めて植えます!流石に天下人、太閤秀吉です。機内(今で言う近畿地方)から、約700本の桜を集めて植えます。
お花見の為に、桜を植えるなんてスケールが違います。でも今の社会で言えば、豊臣政権はブラック企業です。
花見の準備期間は、何と1ヶ月!命令されたのは豊臣政権の五奉行の前田玄以です。(ここは、テストに出ません)
前田玄以、頑張ります。機内の各国から桜を掻き集め醍醐の街道沿いに植えます。
やりました!前田玄以!何とか、花見の準備を終わらせます。これで、豊臣政権の威信を掛けた、盛大な花見を催せます。
しかし、残念な事に諸大名は呼ばれませんでした。呼ばれたのは、女性ばかりです。諸大名や配下の女房や女中衆が呼ばれました。その数、約1,300人です。
諸大名は、聚楽第(秀吉の別荘)から醍醐寺までの街道の警備にあたりました。
そして、醍醐の花見の責任者は~またも登場!前田玄以です!またまた、前田玄以!頑張ります。太閤秀吉の最後の大イベントである醍醐の花見を無事に終わらせます。
太閤秀吉は、花見の後、約半年後に世を去ります。農民から身を起こし、天下人になった希代の英雄「豊臣秀吉」の最後の大舞台でした。
深雪山 醍醐寺
花見の舞台になった醍醐寺は、貞観16年(西暦874)に弘法大師・空海の孫弟子である理源大師が開基です。
元々は、醍醐山の山頂で修行する修険霊場でしたが、醍醐天皇の庇護もあり麓まで、寺域を拡げました。
今では、山頂を上醍醐、麓を下醍醐と呼ばれています。
今回は、下醍醐に行きましたが下醍醐も広く、見所も沢山あります。今回は、その中で「唐門」「三宝院・庭園」をご紹介します。
駐車場に車を停めて、唐門に向かいます。お!見えて来ました、国宝の唐門です!
唐門は、醍醐の花見の時にはありませんでした。醍醐の花見の翌年に作られました。門に刻まれているのは「菊紋章」と「桐紋」です。
どちらも皇室や時の政権(唐門が作られ時は豊臣政権です、古くは室町幕府などです)が使用する紋ですね。(皇室は、近代に入ってからは菊紋章を使用されています)
残念ながら唐門から三宝院には入れません。総門から入ります。
総門です。中に入ると見事な柳の木があります。(ここからは拝観料が要ります)
柳の木を通り過ぎると、三宝院の入口があります。
言うまでもなく土足厳禁です。寺院は基本的に土足厳禁ですので靴が気になる方は、ビニール袋を持っていった方がいいですよ。(ビニール袋を置いてる寺院もあります)
三宝院の中も素晴らしいですが、庭園は…もっと素晴らしかったです!
素晴らしい!どの辺が素晴らしいかって?解りません!感性ですね、縁側みたいな所に座って、ぼーと見てると気持ちが落ち着きます。「京都五山の天龍寺」の庭園も素晴らしかったですが、醍醐寺の庭園も素晴らしいです。
他にも色々紹介したい所がありますが、今回はこの辺で失礼します。醍醐寺(世界文化遺産です)よかったです。
頑張った、前田玄以とは。
前田玄以は、元々は織田家の家来です。信長に呼ばれて織田家に仕えます。その後、信長の嫡男の信忠に仕えますが、本能寺の変が起こります。信忠は、信長を助けようと本能寺に向かいますが、既に本能寺は、明智光秀の軍勢に囲まれて近づく事が出来ませんでした。
信忠は、二条城に向かい籠城しますが多勢に無勢です。明智勢に攻められ自害します。前田玄以は、信忠と行動を共にしていましたが、信忠の命で京都を脱出し岐阜に向かいます。
岐阜城にいる信忠の嫡男である三法師を、安全な織田家の本拠地である尾張清州城に逃がす為です。無事に清州城に三法師を移した前田玄以は、今度は信長の次男である信雄に仕えます。
その後、織田信雄が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立すると、秀吉に味方します。秀吉に仕えた玄以は、丹波亀山城主として5万石の知行を貰います。まあ、時世に敏感な人だったんでしょうね。
豊臣秀吉の最後の大イベント、「醍醐の花見」を頑張って終わらせた玄以ですが、秀吉死後は、微妙に卑怯になります。(まあ、戦国の世ですから仕方ありませんが)
秀吉の死後、やりたい放題の徳川家康を打倒しようと、石田三成が挙兵します。前田玄以は、三成と同僚の豊臣政権の五奉行です。仕方ないので三成に味方し西軍に属します。
しかし、戦には出ません。病と称して大坂城に引き籠ります。そして~少しずつ情報を徳川に漏らします。(いわゆる内通ですね)そのかいあって、関ケ原の戦いで西軍が負けた後も、本領である丹波亀山5万石を安堵されます。
まあ、家を守るという意味では、頑張った!