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一度は行ってみたい!戦国最強「武田信玄」が御祭神!甲府市の「武田神社」!

どうも、吉です。

新型コロナウィルスが収まりませんね。こういう時は、大人しく自粛してるに限ります。

収束した後に、どこの神社に行こうかと思案していると。

そうそう、昔から行きたかった神社がありました。

山梨県の甲府市にある「武田神社」です。

武田神社は、戦国大名の武田信玄が御祭神として祀られています。

今回は、御祭神の武田信玄と武田神社を紹介します。

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甲斐源氏の嫡流、武田家とは?

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武田信玄(たけだしんげん)は、甲斐源氏の嫡流である武田家の当主です。

武門で言えば、結構な名流ですね。

室町幕府が健在なら、名門のお殿様だったのですが、残念ながら信玄の時代は、幕府の力が衰退した戦国時代です。

家柄より、実力が物をいう下克上の世の中なのです!

室町幕府から国を守護するように任命された守護大名は、力のある家臣達に国を乗っ取られて没落していきました。

周りの守護大名が没落していく中、武田家は、信玄の父親である「武田信虎(たけだのぶとら)」が甲斐国を制圧して、守護大名から戦国大名になったのですね。

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武田信玄は、幼名を「太郎」といいます。因みに弟の「武田信繁(たけだのぶしげ)」の幼名は「次郎」です。なんかベタな感じですね。

天文5年(1536)年に元服し名前を「晴信(はるのぶ)」に改めます。

名前の「晴」の字は、室町幕府第12代将軍の「足利義晴(あしかがよしはる)」の「晴」の字を賜ったと言われています。

父の信虎の時代に戦国大名となった武田家は、結構強くて順調に領土を広げようとします。晴信は、嫡男ですので順風満帆の坊ちゃん生活が出来るはずでしたが、残念な事が起こります。

信虎が、嫡男の晴信より、弟の信繁に武田家の跡を継がせたいと思いだすのです。

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困った晴信は、武田家の譜代の重臣である「板垣信方(いたがきのぶかた)」「飯富虎昌(おぶとらまさ)」と図り、天文10年(1541)に信虎を、「今川義元(いまがわよしもと)」が治める駿河へ追放してしまうのです。

その後、晴信は、武田家第19代目の当主となり、信濃に侵攻し順調に領土を広げて行きますが、その前に立ちふさがった武将がいます。

越後の龍「上杉謙信(うえすぎけんしん)」です。

謙信とは、北信濃の領有権を巡って戦を繰り返します。

有名な「川中島の戦い」です。

合計5回も戦をしますが、最も激戦になったのが4回目の戦です。その戦の場所が「川中島」であった為、その他の戦も総じて「川中島の戦い」と呼ばれるようになりました。

結局のところ、全て引き分けのような形で終わっていますね。謙信も生涯負け知らずの「軍神」と呼ばれていた武将ですから、相手が悪かったですね。

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晴信は、永禄2年(1559)に学問の師だった「長禅寺(ちょうぜんじ)」の「岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を導師に出家します。

出家した晴信は、「徳栄軒 信玄」を号します。「武田信玄」の誕生です。

信玄は、その後も領土を広げていきます。

駿河・遠江の国守である「今川義元」が「桶狭間の戦い」で「織田信長」に敗れて弱体化すると、駿河に攻め込みます。一応、義元が健在な時は、武田家と今川家は同盟していたのですが。。戦国時代ですからね。

駿河を手にれると、遠江や三河の一部も手に入れます。また、飛騨や上野、越中の一部も支配下に治め総石高は、約120万石の大名になります。

この頃が、信玄の最盛期ですね。

ここで、領国を固めれば良かったのですが、信玄は上洛の為の戦を始めます。

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京都にいる室町幕府第15代将軍「足利義昭(あしかがよしあき)」の上洛依頼があったとも言われていますが、信玄は上洛の旅に出ます。

途中で、織田・徳川家の連合軍と戦いますが、一蹴します。

意気揚々と武田軍は進撃しますが、ここで武田軍に異変が生じます。

信玄が病で倒れてしまうのです。しかも・・・そのまま世を去ってしまいます。

戦では、ほぼ負けなしの信玄も病には勝てませんでした。武田軍は、信玄の故郷である甲斐の国に向かって撤退します。

「武田信玄」の辞世の句は、

「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」です。

享年53歳、早すぎる死ですね、病は怖いです。

武田信玄を祀る「武田神社」

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武田神社は、比較的新しい神社です。

社殿が創建されたのが、大正8年です。その年の信玄に命日である4月12日に、初の例祭が奉仕されています。

武田神社は、永正16年(1519年)に、石和より移築した「躑躅ヶ崎館跡(つつじがさきやかたあと)」に鎮座しています。

躑躅ヶ崎館は、信虎、信玄、勝頼の武田3代が居城として館です。勝頼は、後年に躑躅ヶ崎館から現在の山梨県韮崎市に「新府城(しんぷじょう)」を築城し、そちらを居城とします。

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信玄は、城を築城しませんでした。躑躅ヶ崎館も館です。

信玄の考え方を示した名言が、

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」です。

信玄の元には、優秀な武将が揃っていました。有名な「武田二十四将」ですね。

人材こそが国を守る為に必要だと思っていたのですね。事実、信玄が健在の頃は、躑躅ヶ崎館に攻め込まれる事はありませんでした。

武田神社では、国指定史跡になっている「躑躅ヶ崎館跡」を見学する事が出来ます!

「勝運」にご利益のある武田神社ですが、境内にある「三葉の松」は、黄金色になって落葉することから、身につけていると「金運」のご利益があるといわれているのです!

関西からは、遠いので行くことが出来ずにいるのですが、一度は行ってみたいですね。

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