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天下人の補佐役!豊臣秀長の居城、郡山城跡へ

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奈良県にある郡山城(大和郡山城とも言います)に行って来ました。天守閣は有りませんが、立派な石垣と門、櫓?が残っています。奈良県は、昔は大和国と呼ばれていました。郡山城の代表的な城主は、私の好きな筒井順慶豊臣秀長です。特に秀長が好きです。

筒井 順慶

大和国の戦国大名。筒井家は元々は、武士ではありません。興福寺一乗院派の宗徒でしたが実力をつけて武士化しました。戦国時代は、宗徒が武士になったり商人が武士になったりします。

話が逸れますが、商人から戦国大名になった代表的な人物は、美濃国(今の岐阜県)の斉藤道三です。油売りの商人から美濃一国の戦国大名になります。(うーん、商人から大名とは、夢がありますな〜)

しかし、当時の機内(近畿地方)は、三好長慶率いる三好三人衆が幅を利かせてます。順慶も三好家の家臣である松永久秀に攻撃されて、一時期は居城である筒井城を追われてしまいます。

何とか生きながらえ、家臣の元で再起を図っていた順慶にチャンスが訪れます。何と!調子に乗っていた松永久秀が三好長慶に喧嘩を売ります!

オー!ゲット!チャンス!

順慶は、三好三人衆と手を組んで久秀に戦を挑み見事に勝利!筒井城を奪還します。が、ここで今度は順慶が調子に乗ります。。残念。。

久秀は、情報収集が上手かったのでしょうね。当時、足利一族の足利義昭と上洛した織田信長に急接近し、家臣になります。(正確には、義昭の家臣になり幕臣になります。でも本当は信長を始め武士は、征夷大将軍である義昭の家臣で幕臣のはずなんでが…時代ですね)織田家の力を借りて順慶を攻めようとしたのです!

織田家の後押しがある久秀に、対抗しようもなく順慶は筒井城を追われます。三好三人衆に至っては、機内を追われて四国まで逃げてしまいます。

順慶は、今度は叔父さんの家で再起を図ります。。。そして。。。

オー!ゲット!チャンス!!

調子に乗った久秀は、”戦国時代最強の大名!武田信玄”と手を組み信長に対抗します!が、負けます。。(信玄が京都への上洛途中で病死してしまうのです)

久秀が信長と戦っている間に、順慶は信長と共に上洛し室町幕府15代将軍となった足利義昭と手を組み、筒井城を奪還します!

その後、ついに松永久秀は、信長に追い詰められ信貴山城で天守閣に火薬を詰め込み爆死します。なぜ、切腹ではなく爆死かと言うと、久秀は茶人としても名を馳せた人物でした。久秀は、有名な茶器である平蜘蛛を持っていましたが、この茶器を信長が欲しがっていたのです。

何と!信長は、平蜘蛛を渡したら命は助けるという交渉もしたようです!しかし久秀は、平蜘蛛と共に爆死しました。久秀の最後の意地だったのでしょうか。。

その後、順慶は信長の家臣になり大和国を安堵され郡山城を居城とします。

調子に乗ると良いことはありません、気を付けましょう。

郡山城跡ですが、大手門前に駐車場があります。が、とても小さいです!5~6台停められかどうかです。しかも駐車場への入口が判りにくく道も狭いです。(私も入口が判らずに通り過ぎてしまいました)運転に自信のない方は、郡山城跡の前にある”やまと郡山城ホール”に駐車する事をお勧めします。2時間無料ですので城跡を見学するのに充分な時間です。

郡山城に向かう前に腹ごしらえです。ホールの中にあるレストランで昼食を頂きました。有名人のサインが何枚か壁に貼ってありました。人気の店なのかな?確かに頂いたヒレステーキ丼は美味しかったです。

お腹も一杯になったので、いよいよ郡山城へ向かいます。郡山城ホールを出て正面にあるのが、郡山城です!

しかし…何処から入るんだろうか??とりあえず近くのおじさんに聴きました。線路(これは近鉄電車だな)沿いを左に向かっていけば踏切があるので、それを渡れば良いみたいです。

教えて貰った通り、歩いて行くと!有りました!郡山城の城跡です!

立派な大手門があります。観光客は、ぼちぼちいますね、櫓もあります。古びた感じが良い味を出しています。

大手門から入ってしばらく歩くと天守閣に繋がっている小道があります。途中の柳沢文庫(地方史誌専門図書)の横を抜けて堀の上を通り風情ある門を通り抜けると…

天守閣に続く道があります。この門、和風で気に入りました。

さて天守閣ですが、残念ながら石垣しか残っていません。。しかし展望台になっていて、大和郡山市を一望できます。地元の人たちの憩いの場になってるみたいで家族連れが遊んでいました。

前の山は、何と!奈良の若草山です!奈良市まで見渡せるとは…昔は、今より空気が澄んでいて高い建物も無いので、敵が攻めて来たら直ぐに判りますね〜

天守閣の石垣の上から大和郡山市を一望して、殿様気分を味わえた事ですしソロソロ引き上げです。次は何処に行くかな〜

豊臣 秀長

天下人の豊臣秀吉の弟です。弟といっても母の再婚相手の竹阿弥との間に出来た子ですので、異父弟になります。身内の少ない秀吉は、この弟を可愛がります。

秀長は、天正13年(1585年)8月に四国攻めの功績により、大和国を加増され郡山城に入城します。

大和国の城主であった筒井家は、定次(順慶の養嗣子)の代になっていましたが、伊賀国(現在の伊賀市と名張市)に国替えになります。

秀吉は、秀長に絶大な信頼を寄せます。秀吉の出世の陰には常に秀長がいました。秀長は、戦以外にも内政や外交に手腕を発揮しましたが、どんなに活躍しても秀吉を立て補佐役に徹しました。

偉くなっても威張らず、篤実で温厚な性格の為、諸侯からの人望も集まりました。官位が従二位大納言であった為、大和大納言と呼ばれていました。

天正19年(1591年)1月22日、秀長は郡山城の城内で病死します。兄である秀吉が天下人になったのを見届けてから世を去りました。

しかし豊臣家は、秀長という大黒柱を失ってしまいました。秀長が生きていれば、後年の秀吉の暴走は無かったかも知れません。

豊臣家の為に生涯を捧げた秀長は、兄の秀吉と甥の秀頼と共に、大阪市にある豊国神社に祀られています。

郡山城跡

【住所】

639-1011 大和郡山市城内町

【電話】

0743-53-1151

【駐車場】

有(5台)※やまと郡山城ホールに止めるのがおススメ。

【最寄駅】

近鉄郡山駅から徒歩10分

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